日日是好日

袖振り合うも多生の縁。ご覧下さってありがとうございます。

いのちというのは…

 

こんにちは、かっちゃんです。

 

唐突ですが。

 

私たちのいのちというのは、

 

いわば乗り物のようなものなんだと思うのです。

 

うん。

 

たぶん。

 

そうなんです。

 

この世に生を享けたときに、神様からお借りした乗り物。

 

例えるならば、レンタカーみたいなものと同じで。

 


車種も様々ですし、色も違うかもしれません。

 

見た目や性能に大きな違いがあるかもしれません。

 

扱いやすいかもしれませんし、扱いにくいかもしれません。

 

長く乗っても傷まない頑丈な造りかもしれませんし、そうでないかもしれません。

 

メンテナンスを怠ると、すぐに錆が出るかもしれません。

 

見た目のわりに燃費が良いかもしれません。

 

普通はついているはずのミラーがついていなかったりするかもしれません。

 

エンジンがかかりにくかったり。

 

外装が剥げてしまっていることがあるかもしれません。

 

手違いで燃料も満タン入ってない場合もあるかもしれません。

 


与えられた条件は同じではありません。

 

神様は不平等に一見すると見えます。

 

どう考えても、隣の芝が青く見えるようなケースもあるかもしれません。

 


でもきっと、それは

 

今回の乗り物においては

 

大きな大きな視点で見ると

 

ちょっとしたことなんです。

 

問題なのはそこじゃなくて。

 

与えられたこの乗り物に乗って

 

何を想い、どんな走り方をするのか。

 

そこを神様は見ているんだと。

 

そう思います。

 


その乗り物やったら、そりゃあ、まぁ、それぐらいのパフォーマンスは出るよな、とか。

 

その乗り物やのに、よう頑張って、そこまで頑張ったよなぁ、とか。

 

与えられたいのちのスペックと、

 

為したことの難易度。

 

その乖離。

 

そこをきっと、神様は見ているんだと思います。

 


フィジカルな部分を鍛えることは、その乗り物の外装をピカピカに磨き上げることに近いのかもしれません。

 

メンタルな部分を鍛えることは、モーターやギアや見えない部分の性能を、丁寧にメンテナンスすることに似ているのかもしれません。

 

そして、見えない部分を大事にしていると…。

 

時間差はあるけど、

 

それが目に見える部分にも

 

顕れてくるのだと思います。

 

逆に見えない部分を疎かにすると、

 

これも時間差があって、

 

目に見える部分に顕れてくる…。

 

そもそもが神様からの借り物なんだとするならば、

 

あだや疎かに扱うものではなく。

 

きっと、大切に大切に慈しみながら

 

取り扱うものだと思います。

 


そして燃料を使い切って走り切って。

 

到着した地点が神様の設定したゴールで。

 

そこで、その乗り物は回収。

 

神様にお返しすることになるのだと、

 

そう思います。

 


昨日、知り合ってまだ日の浅い友人であるAさんの訃報を聞きました。

 

今週お会いした時には、全く普通に会話もできて、そんな兆候も全く見られませんでした。

 

 

お借りしていたものを天に還される時が、Aさんにやって来たのだなぁ。

 

そんなことを思いながら、上記のようなことを漠然と考えていました。

 

 

 

Aさん、あなたとは最近の付き合いでしたね。

 

これから縁がふかくなっていくのかなという矢先、そちら側に旅立たれましたね。

 

《Aさんの本名》の旅はどんな旅でしたか?

 

若い頃、ぼくと同じようにSEをされていたとお聞きして、心ひそかに親近感を感じていました。

 

充分にこの世を満喫できましたでしょうか?

 

Aさんの持って生まれたものを使って走り切ることはできたでしょうか?

 


しばしの別れですが、やっぱし別れというのは寂しいものですね。

 

一緒に過ごした時間を思い返して、どんな平凡な一日も貴重であるということ、そして生きていることの不思議さに改めて思いを馳せ、自分が今もこうしてまだ生きているということに畏れの気持ちを抱けずにはいられません。

 

こちら側に遺ったものとして、あなたの意志を、遺された人とともにシェアしながら受け継いでいきます。

 

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 おれ、今日いったい

 何人の人と喋ったんだろう。

 頭の中で数えてみる。

 20人弱かな…。

 おれ、あと何日生きるんだろう。

 たとえば50年としたら、えーっと。

 365 * 50  + 閏年 で 18,300 日弱か。

 すると、おれ人生であと、

 袖振り合う人って

 単純計算で 18,300 * 20 で、

 述べ37万人弱なのか…。

 

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砂時計の砂は不思議なぐらい音もなく、しかし確実に落ちていきます。

 

今まで出会った人の中で、すでに亡くなった人や、今生もう出会うこともないであろう人の顔を思い浮かべてみました。

 

メメントモリ


僕は、頂いたこの自分のいのちを、何に使うことができるだろう。

 

どうやって、このいのちの意味を輝かせることができるだろう。

 

 

Aさん。

  

 

生きるっていったいどういうことなんでしょう。

 

死ぬってどういうことなんでしょう。

 

そちら側に行かれて何か分かったことがあれば、またそっと教えて下さい。

 

心よりご冥福をお祈りします。